大阪高等検察庁 田中嘉寿子検事
性被害者に起こっていること 凍り付き症候群 次に,いざ被害にあった瞬間に,抵抗できない理由が,ショック相と凍りつき症候群です。防災心理学では「凍り付き症候群」,生理学では「すくみ反応(Freezing behavior)」といいます。これは突然,大きなストレスに直面すると頭はまっしろ,体は凍り付いて活動停止状態になることをいいます。
なぜ,防災の話をわざわざ性犯罪と比較して持ち出してくるかといいますと,防災の話は老若男女共通,世界中共通なんです。犯罪被害は他人事だと思いたい気持ちが人間に働いていますので,犯罪被害者についての話は社会に浸透しにくいのですが,防災の話題は,いつ誰に起こるかもしれないということで社会的に受け入れやすいんです。大災害があると,多くの人が凍りついて逃げ遅れましたね,という大規模調査が行われ,凍りつき症候群については実証されています。直ちにヒーローみたいに行動を起こせる人は10%しかいません。映画みたいに泣き喚いてパニックになる人も10%しかいません。ほとんどの80%の人は,凍り付いて何もできず,呆然自失状態になります。
これは,性被害者も同じなんです。性被害に遭ったときにぎゃーぎゃー泣き喚いて抵抗する人なんて1割いないんです。私の経験では,1%くらいしかいないと思います。ヒーローみたいに戦って逃げ出せる人も滅多にいません。性犯罪の被害者で茫然自失で凍り付いてしまう人は,恐らく9割以上になります。そして,これは,メンタルの問題でなく身体のレベルで起こっているというのが,生理学の「すくみ反応」です。今日は,病院関係の方がおられるますので,ストレス反応については私よりずっと詳しい方もいらっしゃると思います。すくみ反応というのは,受動的なストレス刺激で体が動かなくなる,血圧も心拍も低下し,身体全体が副交感神経優位の状態で何もかもがダウンする状態になります。
そういうのを動物実験で確認したのが,ハンス・セリエさんです。セリエは,ストレス学説を提唱し,「ストレス」という言葉を物理的圧力ではなく心理的圧力の意味で初めて使った方です。私は,去年初めてこのストレス反応の図を見て,被害者の心の状態と同じだなと思いました。最初にぱっと凍りついてしまう。その長さは人によって違いますが,動けなくなります。そのあと段々火事場の馬鹿力が出る状態になっていきます。でも,心身が凍っている間に,裸にむかれたり,縛り上げられたり,変なところに連れ込まれたりするため,物理的に抵抗できなくなっているものですから,その後,身体が動くようになっても遅いんですね。
本当にストレス反応は性被害者の状態と同じだなと思って,比較して一覧表にしたのがこの表です。最初にショックを受けたら,危機に対応できず,血圧が低下し,自律神経のバランスが崩れて血糖値も低下する,抵抗力も低下する。これが性被害者の場合ですと,ショックで身体が固まって抵抗できないし,身体に力が入らなくて逃げられなくなり,気管支も収縮して悲鳴も上げられず助けも呼べない状態になります。
しばらくたつと反ショック相に移動する人もいます。ストレス反応で,アドレナリンの分泌が亢進し,心拍・血圧が上昇して身体の戦闘準備態勢が高まる状態です。反ショック相で起こるといわれているのが,「闘争・逃走反応」です。こういう反応をするのは男性に多いと言われています。抵抗したり,犯人を捕まえたりすることです。女性でも,痴漢に遭ってお尻を触られ,初めはショック相に陥って凍り付いてしまい,体が動かない,声も出ない,どうしよう,というのがショック相の状態。ずっとしつこくやられていると,段々怒りが湧いてきて,反ショック相に移行した場合,身体が動いて声も出るような交感神経優位の状態になりますので,ぱっと手を掴んで「この人痴漢です!」と言えるようになります。これが,普通なんです。最初から「痴漢です」と言える人は,とても珍しい,ショック相に陥らない人ということになります。防犯訓練を十分受けている女性警察官や,被害に遭い続けて怒りを蓄積し,ショック相の期間が短縮化したような方しかいないでしょう。
多くの人は,私が仮に「従順・懐柔反応」と呼んでいる反応を示します。つまり,犯人に対して非常に従順に振る舞って生存率を最大化し,何とか相手を懐柔して被害を最小化しようとする対応です。非常に迎合的に振舞うことによって殺されず,怪我もしないで済みます。これは,人間が生き延びるために,生存率を最大化し,被害を最小化しようとする原始的防衛反応です。被害者は,なるべく早く犯人に立ち去ってもらうため,犯人を怒らせないように,その機嫌を取り,迎合的に従順に振る舞います。それと同時に,懐柔策を取る人も多く,あるかないか分からない相手のなけなしの良心を目覚めさせ,強姦既遂に至らないでやる気をなくさせようとしたり,妊娠を避けるために「せめてコンドームをつけて」と頼んだり,最悪の被害を免れようという努力するのです。見た目はあまり暴れて抵抗したりしていませんので,再現実況見分をすると,合意のときと一見同じように見えますが,被害者本人は,生き延びるために必死だったのです。
反ショック相の時期が過ぎると,抵抗期になります。抵抗力は回復しますが,ずっと警戒態勢を取っているため,疲れます。過覚醒状態が続いていますから,びくびくして不眠症になる方が多いです。一所懸命に日常を演じようとし,被害を「なかったこと」にしようとしますので,通勤・通学し,友達に誘われればライブに行くこともあるでしょう。「普通」を演じるのにものすごいエネルギーを使いますから,疲れきり,次の疲弊期に入ります。これが続くとPTSDなどのトラウマ反応が生じます。疲弊期がずっと続くと,脳内でストレスホルモンのコルチゾールが過剰分泌されて海馬が萎縮します。性虐待の被害者の子どもたちは海馬が萎縮しており,記憶障害になりやすいことが脳のMRI画像の研究(友田明美「傷ついていく脳」)で分かっています。また,脳梁の萎縮を生じて境界性人格障害になりやすいなど深刻な被害が残るといわれています。
ショック相期には,抵抗力が低下しています。ショック相で凍りついている状態がちょっとでもあると,犯人のいいようにされてしまいますから,物理的にも抵抗不能に陥ります。ショック相の間には,ストレスホルモンのβ-エンドルフィンが分泌しているそうです。これは,痛みを感じなくしてくれるんですね。記憶と情動に関する本によると,β-エンドルフィンは,記憶も阻害するそうです。被害者の中にはリストカットする子どもがいるんですが,これのせいかなと思いました。リストカットで人為的にストレスを作ると,モルヒネの5倍以上の鎮痛作用があるβエンドルフィンが分泌される,つまり,麻薬を買わなくても自分の身体が麻薬を作ってくれるので,楽になります。リストカットする子供は,「死にたいから切るのではなく,生き延びるためにリストカットが必要なんだ」と言いますが,これのせいなのかなと考えると納得できる気がします。
性犯罪の犯行が長く続く場合,被害者は,反ショック相に移行して抵抗力が回復し,身体が動けるようになったとしても,既に犯人の方が優位に立っているので,今更犯人と戦ったり,逃げたりするのは困難な状態に陥っていますから,従順に振舞うしかありません。
反ショック相については,一流の運動選手は,訓練によって,試合前にイメージトレーニングをして反ショック相状態に身体を持って行き,アドレナリンが身体から一杯出る状態で試合に臨みます。アドレナリンが出ていると痛みを感じませんので,選手は多少の故障があっても試合で全力が出せます。被害者の多くは,身体に傷があってもアドレナリンが出ていると,痛みを感じないので気づきません。直後に警察が駆けつけて,「血が出てますよ」と言っても,被害者の方は,「あ〜そうですか,気付きませんでした」ということがよくあります。そんな身体の傷より,他のことで必死なんですね。
反ショック相の間に被害が続いていて頑張った被害者には,PTSDが重い人が多かったです。なぜなら,アドレナリンが出ていると記憶が増強されますので,犯人に非常に嫌な性被害を受けていることをよく覚えています。しかも,犯人に従順にふるまってしまった自分の情けない姿をとてもよく覚えているのですから,PTSDになりますよね。
抵抗期は人によりますが,1週間くらい続きます。抵抗期が過ぎれば,証拠が消えてしまいます。この間,被害者は,何でこんな目に遭うの,という理不尽な運命に対する怒りをどこにもぶつけられないため,自分に向けてしまいやすいのです。犯人に怒りを向けるのは滅茶苦茶怖いですから,怒りは自分や身近な家族・恋人・友人などに向かいます。そうやってしばらく頑張るんですけど,エネルギーが枯渇するので,疲弊期に入り,PTSDなどのトラウマ反応に向かいます。
これが一般的なレイプ被害者の図として,非常にぴたーっとくるんです。非常に分かりやすい図です。セリエ先生の学説がすべて正しいわけではないでしょうけれど,このストレス反応の3相期の図を見せると,被害者と直接話したことのある人は,全員「これは被害者の図だな」と言ってくれるので,お医者さんとか研究者の方が,もっと研究を深めてくれるといいなと思います。
ショック相期に凍り付いてしまうと,抵抗はとても難しいです。知人間でも予想外のことを言われてしまうと,全く抵抗できなくなります。脳の血流量が下がるというのは,頭が良い人でも頭の回転が鈍っていることになります。後から,「何で自分はあんなことしか言えなかったんだ,できなかったんだろう」と,自分をすごく責めるんですが,ショックを受けて脳の血流が下がっていますから,なかなかうまい反応はできないのが普通なんですね。自責感に悩む被害者がそういう身体のメカニズムを知れば,少しは自責感を軽減できるのではないでしょうか。支援者の側もそういうメカニズムを知っている必要があると思います。
|