犯罪被害者に必要な支援
公益社団法人被害者サポートセンターおかやま
大 崎 利 章
事件が起きたのは約6年前の2010年2月25日の午後5時半ごろで、場所は私の自宅です。
その時、私は仕事で家にいませんでした。被害に遭ったのは、私の妻と、長男と次男の3人です。加害者は私の弟です。
当時、私の家族が母屋に住み、両親は離れに住んでいました。弟は離れが狭いので、母屋の2階の1室を使って生活していました。弟はパチンコや競艇と言った賭け事が好きで、仕事は1年のうち半分ぐらいしかしておらず、賭け事で負けると両親に暴力を振るっていました。
両親はその暴力に耐えきれず、なぜか、私たち夫婦にその暴力を向けさせるために、「本当に憎いのは兄夫婦だ。」と、母親は弟にしきりに話していました。
弟はやがて私たち家族を敵対視するようになり、家の中で騒音を足したり、あばれ、威嚇し、嫌がらせを繰り返すようになりました。弟は光熱費も払わず、共働きだった私達夫婦が払っていました。光熱費は多い月で電気代が3万8千円、水道代は上水道の使用だけで2万円以上請求がありました。また、弟は車のローンも払わず、妻は自分の定期預金からそのローンを払っていました。
こうした生活が続き、私達夫婦は次第に光熱費や税金、子どもの保育料を滞納するようになっていきました。生活費を切り詰めようと、風呂の水は一週間に一回取り替えるようにし、トイレの水も全員が用を足してから流すようにしていました。それでも水道代は2万円を越えました。
話し合いをすればいいじゃないかと思われるかも知れませんが、とても、話し合いができる状態ではありませんでした。弟が両親に激しい暴力をふるっていたため、その矛先が私達に向かってくるのが怖かったのです。こうした状態が4年以上続きました。でも、それが殺人事件になるとは、思ってもいませんでした。
事件は2010年2月25日の午後5時半ごろ起きました。私は仕事からまだ帰っていなかったのですが、子どもたちから聞いた話では、弟が突然家の中に入ってきて、私の妻を何度もナイフで刺したのです。それから、子どもたちの方に行き、「おまえらも、殺してやる。」と、言いながら、ナイフを振り回してきたそうです。そして、子どもたちはそれぞれ20針以上縫うけがを負わされました。その後、弟は灯油をまいて、家に火をつけました。火が燃え広がるとき、長男と次男は、別々に逃げ出していて、長男は、近所の家に助けを求めていました。その時妻は、自力で家の外に出て、当時7歳だった次男の名前を呼んでいたそうです。家にいた家族三人がばらばらになり、特にまだ小さかった次男が無事かどうか、確認したかったのでしょう。
私が帰宅したとき、妻はすでに意識がありませんでした。それでも私がそばに行くと、妻が顔をこちらに向け、何かを語りかけているようでした。子どもたちの無事を確認してほしかったのか、弟のことを話したかったのか、私に向かって、「お父さん」と、言っているようでした。妻はその後、出血多量で死亡が確認されました。子どもたちは一番大切な母親がナイフで刺されるのを見て、自分たちも切りつけられました。命は取り留めましたが、頭や背中に傷が残り、また、目の前で母親をナイフで刺されていることから、精神的に苦しめられ、PTSDという精神障害に苦しめられるようになりました。
いまだにその恐怖から逃れることができず、あのときの様子が夢に出てくることがあるようです。妻が死んだことは、長男には病院で治療を受けているときに私が話しました。「ママ、死んだん?」と、聞かれ、「ああ」と、答えると、長男はずっと泣いていました。でも、7歳だった次男にはとても言えませんでした。治療中、私が次男に近づくと、「ママは?」と、聞かれ、「ママは、違う病院にいるよ。」と、私が言うと、次男は、「早くママに合いたいな。」と言っていました。
事件の翌日、テレビや新聞で大きく報道されました。いずれは話さないと行けないと思い、次男にも「ママは、死んだよ。」と、伝えました。次男は30分ほど、発狂したように泣き叫んでいました。7歳だったのですが、次男は母親の死を小さいなりに分かっているようでした。事件後、私と子どもたちは、葬儀の際に妻と対面しました。妻は髪の毛が長かったのですが、その髪の毛が無くなってしまっていました。検体の際、剃られたのだそうです。美容師だった妻は次男に、「小学校の2年生になる時に上を切ろうね。」と、話していたのですが、母親が死んで、次男は髪を切れなくなりました。次男は後頭部と手を切られており頭の傷口の治療の時、医者から、「髪の毛、切ろうかな。」と、聞かれると、「切りたくない」と、答えました。母親が切っているくれると約束した髪の毛を誰にも切ってほしくなかったのだと思います。次男は現在も髪を伸ばしたままで、お尻のあたりまでになっています。
事件の後、私達は精神的に苦しめられています。長男は火のついた家に弟を捜しに意向とした際に、ママから「行くな」と、言われたときの光景が、突然、目の前に広がり、フラッシュバックに襲われることがあります。髪の毛を伸ばしたままの次男は、「ママに会いたい。天国には、ナイフで刺したらいけるの?」と、言うことがあります。ナイフで自分を刺せば、ママに会えると思っているのです。次男は、人の死は、ナイフで刺すことだと思っています。
逮捕された弟は、送検され殺人と傷害罪と放火で起訴されました。弟が妻をナイフで刺したときナイフの刃が折れ、折れたナイフで子どもたちに襲いかかったことで、「生命にたいする危険性はなかった」と、検察が判断したためです。子どもの背中には、大きな傷跡が残されました。私はただの「傷害」ではなく、「殺人未遂」にしてほしいと、思っていました。しかし、あのとき、ナイフの刃が折れたことで、子どもたちは、けがですんだのです。今は、妻は身を挺して子どもたちを守ったのだと思います。弟の裁判は「裁判員裁判」で行われました。裁判で、検察は弟に懲役27年を求刑し、判決は求刑どおり、懲役27年になりました。これは、岡山県内の裁判員裁判で、その当時では、最も重い判決でした。でも、裁判員を務めた人からは、この刑は「軽い」と、答える人も何人もいたそうです。私も軽いと思っています。
この事件の精神的な苦痛はとても言葉では表現できません。犯人が弟であるという事実にも苦しめられています。精神的な苦しさは、なくなることはないと思います。事件後、精神的な問題に加えて、経済的な問題がありました。手元に現金を約7000円しか持っていませんでした。
ラジオのニュースで、自宅は全焼、と聞いていたので何も残っていないと理解していました。そのため、入院費が払えるか心配になり、病院でこれ以上お金は使えないと思い、有料の付き添いベットは借りずに、椅子に座って寝ていました。食事は、付き添い食はなく、買うこともできないので、子どもたちの残した物を食べていました。銀行のカードは、妻が管理していたのと、殺人事件のため、銀行口座を凍結され、お金を引き出すこともできませんでした。
そのような状態で、お金が使えないこととなり、これ以上入院して治療していると、支払が滞ると思い、病院のドクターからは退院は早すぎると止められましたが、病院を早めに退院しました。しかし、子どもの傷口が開き出血が酷くなったので、また、病院で治療する始末でした。
放火された自宅に帰ることもできず、焼け残った離れに住むことにしました。放火された家のローンがまだ残っており、家財道具も焼けてしまい、できるだけ出費を少なくして生活しなければと考えました。今までは妻と共稼ぎでしたが、妻の収入が無くなりました。食事を作る人がいなくなり、料理をしたことのない私が作るようになりました。インスタントラーメンのようなインスタント食品ばかりで、食べさせることも満足にできない状態でした。精神障害の治療は、治療費がかさむため、満足に治療ができませんでした。勧められても治療を断っていました。生活が少しずつ落ち着いたころから、カウンセリングや精神治療を再開したのですが、事件後、本当に困っていたときに、ちゃんとした治療をしていれば、症状が軽くて済んだのかとも思います。そう思うととても辛く、子どもたちに申し訳ない気持ちでいっぱいです。
事件後、家財道具も買うことができず、布団は寄付して頂いたのですが、この時期、3月はまだ寒く、焼け跡から、電気じゅうたんを見つけ、洗濯したら使えたので、このように、使える物を手当たり次第に洗濯しました。当時は、焼け跡の掃除をするのは、私達3人以外いませんでした。次男はまだ小さいので、私と長男のふたりで、私は会社から帰ってから、長男は、学校から帰ってから、使えるものは、手当たり次第洗いました。そのため、休日はずっとこの作業でした。家が焼けたと言いますと、全部焼けたように思いますが、焼け残ったものもありました。ただ焼け残ったといいましても、もう真っ黒で、ほとんど肺の中に入ったような状況です。でも、洗って使える物があれば使うしかないと、半年以上そうしたことを続けていました。
家財道具を運ぶのに引っ越し業者を頼んだのですが、家具が油や煙で真っ黒で「運べない。」と断られ、それからは、自分たちで洗ったり、拭いたりして運び出しました。子どもは、溶けたゲーム機を一生懸命拭いていました。自分の大切な物をこんな形で失った子どもをとても悲しく思いました。休みの日には、こういった作業がずうっと続きました。辛い毎日でした。
次男は精神的ダメージが大きかったので、学校の送り迎えが必要となりました。送り迎えのため、思うように会社に出社できなくなり、収入が激減しました。犯罪行為によって生命・身体を害された被害者や遺族に対しては、犯罪被害者給付金制度という国からの見舞い金が支給されるのですが、私の場合、加害者が私の弟であったため、支給対象になりませんでした。その後ですが、岡山県の犯罪被害者支援団体の被害者サポートセンターおかやま(VSCO)や、全国犯罪被害者の会「あすの会」の方たちと一緒に犯罪被害給付金法のことを煮詰めて参りましたところ、私の子どもに対しては、傷病手当が三分の二、やっと支給になっただけでした。私の親族は他人状態で、誰も助けてくれる人がいませんでしたので、大変ありがたいことでした。
この事件で、私達は大変大きな傷を負いました。きっと消えることはないと思います。しかし、子どもたちのためにも、殺された妻の分も、どうしようもない場合もあります。犯罪被害に遭って、さらに経済的に苦しい状態に陥ったら、自分一人の力での回復はかなり難しくなると思います。被害者は事件の苦しみと経済的生活と精神的な苦しみと、二重、三重の苦しみを抱えて、その後の生活を送らなければならないと思います。そのようなことが無いように、カウンセリングや治療に関する費用の心配は無くして欲しいです。犯罪で困って、経済的に苦しくなった被害者に対して、せめて衣食住が足りる程度の補償くらいは、国に整備して欲しいと思っております。
周囲の支えですが、事件後に、勤めている会社や医療機関、学校関係の方からしていただいたことについて、お話しいたします。この事件の直後から様々なことが起きています。放火され、住居の心配、葬儀の準備、警察・検察での取り調べ、そして子どもたちの精神的なケアや、生活で突然に仕事を休まなければならない状況が続きました。放火で家を失ったので、寝泊まりする家が無くなったのですが、当初、子どもの治療のため、10日間ほど病院で寝泊まりしていました。その後、警察の方が、住むところとしてシェルターを貸してくれました。それは、1週間ほどで期限が来ましたということで、その後住む場所が無くなり、自分の勤めている会社の保養所をお借りしました。ただ、保養所も、予約が入っていないときだけということで、3日間だけしか住むことができませんでした。
その頃ですが、被害者サポートセンターおかやまVSCOと、つながりを持つことができました。県警から、「もう、あなたの生活をみていたらどうにもなりません、VSCOに連絡してください。」と、言われました。私はどういう団体かわけが分からない状態で、VSCOに電話させていただきました。それから、VSCOから弁護士や精神科への橋渡しもあり、まず、子どもの治療をして頂きました。治療費の方も、VSCOから全額負担していただき、大変感謝しております。
会社にはいろいろ配慮してもらいました。検察庁の事情聴取や、子どもの世話、病院の受診、学校への送迎があるときは、夏季特別休暇などの年次休暇、特別休暇を使い、欠勤することなく乗り越えることができました。当時の状況では、会社も辞めざるを得ないかとも思いましたが、子どもの学校の送迎時間に合わせて、フレックスタイムという、許可制のものですけど、そういうものを使いました。出勤を15分ずつ送らせてもらい、就業も6時の学童保育の終了時間に間に合うように配慮してもらいました。私が社内で講師をしている社内教育の講演も、落ち着いてからと、延ばしていただきました。また、出張も月に何度か入っていましたが、行かなくてもいいように調節してもらいました。もちろん、会社を休んだ分給料は減らされます。注意もされました。でも、会社としてできる限りの融通を利かせてくれたと思います。罹災見舞金をいただいたり、会社の上司の呼びかけで、火事で失われた衣服や布団といった日常生活に必要な物をカンパしていただきました。仕事を休むことで、同僚に迷惑をかけたと思いますが、同僚の助けもあり、仕事を辞めることなく、今も続けることができています。
また、事件後お世話になった病院の方々、その方々がと中心になって、病院内でカンファレンスという、病院内の協議会を開いていただきました。事件当時、病院に行きますと、医師、看護師、カウンセラーの方々が、全然わかりません。その上に、警察の捜査関係者が来ます。家が放火されたので、消防の方もやってきます。初日だけで、40~50人にはお会いしました。病院の方にお話しして、「私はどの方とお話ししたのでしょうね・・・」一度お会いしていても、誰がどなたか分からない状況です。
こんな混乱を避けるために、連絡協議会というものを開いていただきました。医師、精神科医、看護師、医療機関関係者、カウンセラー、児童相談所、警察の被害者支援係、教育委員会、子どもの学校関係者、VSCOのメンバーなどが集まって、情報の整理や、これからの支援について話し合いを持ちました。これは大変ありがたいことでした。
その後、このカンファレンスは、倉敷市の教育委員会とVSCOに引き継がれ、全6回開かれました。VSCOの方はいまだに子どものことをかなり気にかけて下さっています。とてもありがたく思っています。
子どもたちの支援については、児童相談所の保護下で、1か月、一時保護してもらいました。というのは、事件がおきて近所でも様々なことが起きました。被害者のことを良いように言ってくださる方ばかりではありません。「おめぇんとこの家族は・・・」とか、近所の方が自宅の前で暴れました。その時、子どもがフラッシュバックをおこし、あの事件のことを思い出して、「もうここには住みたくない」と、緊急に児童相談所に保護していただきました。その保護の期間が、約1か月間ありました。その後、子どもが学校に行きだして、学童保育で私が迎えに行くまで預かってもらえるようにと、学校側からの配慮がありました。また、市役所の方からは、事件後に障害福祉手帳の認定手続きをしていただき、精神障害者とはなりましたが、傷害を持つということは大変なことではありますが、それでも、市役所の方には、いろいろ手ほどきをいただき、お世話になりました。また、児童扶養手当もいただける表になりました。これらも、VSCOの支援でつながりがあったからです。
また、全国犯罪被害者の会『あすの会』の弁護士とVSCOの働きかけで、犯罪被害者救済基金という基金の申請をしていました。これは、犯罪被害者の維持に対する奨学金です。しかし、平成23年12月16日に不採用の通知が来ました。『あすの会』の弁護士の方も「残念でした。」と、私も非常に残念な思いでした。
以上のように、周りの方々からも様々な支援がありました。被害者の方が事件に遭っても安定した生活ができるということを考えるきっかけにしていただければ、と、思っています。
妻は子どもが大好きで、夢中で子育てをしていました。子どもたちが寝ているとき、「子どもは私の宝物」と、話していました。弟の嫌がらせで4年半苦しめられ、妻はこんな生活から早く解放されたいと願っていたのですが、その思いももはやかないません。長男は柔道部に入っていたのですが、「僕があの時、柔道着でナイフを落としておけば、ママは助かったのではないか。」と、何度も繰り返します。この事件の苦しさは言葉では表すことができません。
事件後、子どもたちの様子も変わり、「お父さん、死なないで、パパが死んだら、俺たちどうしてよいかわからない。」と、不安がって突然泣き出すことがあります。「パパが死んだ夢を見た。」と、言うことがあります。子どもたちは、この事件で心を乱され、今も精神科治療が続いています。子どもたちも寂しい思いで一杯ですが、私も心が苦しい毎日を送っています。今は遺骨となった妻に話しかけているのですが、返事か帰ってくることはありません。「子どもたちは、頑張って生きているよ。」と、話しかけますが、返事は帰ってきません。子どもたちと一緒に妻のところへいこうと、何度も考えました。でも、生き残った子どもたちのためにも精いっぱい生きなければ、と、思っています。子どもたちが私の生きる支えになっています。
終わりに、現在の子どもたちの状況を少しお話しします。
事件後、早6年近くがたちました。皆さんは、6年も経っているので、心も体も元気になって元の生活ができていると思われますか?被害を受けるということは、年月で解決できるものではありません。
当時小学1年生だった次男は中学2年生になり、中学2年生だった長男は社会人になりました。しかし、二人とも精神障害の2級の判定を受け、未だに精神科治療が続いています。長男は今年、成人式でしたが、友達もいなく一人でさびしく成人式を迎えました。次男は中学2年生になりましたが学校へは未だに私が送っています。
次男の将来の夢は、警察官になることです。事件以来、警察の支援がとても心に残っていたようです。このような事件を防止するために働きたいと申しています。彼も夢に向かって頑張ってくれると思っています。
犯罪被害に遭って、様々な思いをしてきましたが、周囲のいろんな方が支えてくださって、私達が今ここにあると思っています。犯罪被害について、今一度考えていただければと、思っています。
どうもありがとうございました。