犯罪被害者遺族となって
松 田 政 美
今を去る事14年前の6月4日、出張先の福岡に電話が人りました。午後10時を回っていたと思います。
ただならぬ予感が頭をよぎりました。
しかし父とは思なかった電話に出ると姉からで誠が危篤状態で入院した早く帰って来る様に。しばらくは何が起きたのかわからないまま1時間ほど過ぎて亡くなったとの知らせが有った。 しかし帰る手段がまったくない。眠れないまま朝を向かえ始発の電車に乗り岡山に向かった。病院に着いて息子に会ってしばらく声も出ず、涙が出るばかりでした。警察に聞いた所まだよく解らないをくりかえすだけでした。司法解剖をさせてくれと言われ断ったが、やむなく承諾し家路に着く。後日遺体を受け取りに行ったが、家に置いていた物扱いだった。通夜、葬儀と解らないまま過ぎていった。
少年3人が自首したとわかったのは2~3日してからでした。 18才の少年と解り警察は何も教えてくれなくなった。少年法が私の前に大きく立ちはだかった。家内に少年法とはどんな物なのかとたずねられ本を立ち読みした。ページをめくるたび私の怒りが体をふるわせた。更生する目的で作られた物で罪を償うものではない。遺族はなっとくしないし出来ない。被害を受けたのは私達家族なのに何もない。加害者にはいたれりつくせりと法で守られている。
以前、香川県の少女の家と言う施設に行く事があった。職員の説明の後に何か質問は有りませんかと言われ、私はすかさず色んな罪を犯して入所していると思うがそれに対してどんな教育をしているのかと聞いた所、そんな物はしていないとの返事が帰って来ました。私は愕然とし何も言えなかった。その目を境に少年法の改正を実現するべく行動した。それには私一人では何も出来ない。仲間が一人でもほしい。私が目につけたのは新聞の読者の欄に投稿する事たった。思いがけず励ましや私も遺族なんですと各地から連絡が有り初めは4家族で初めました。手さぐりの中各地でシンポジュームの様な物を開いて訴えて行きました。その頃からマスコミに取り上げられ初め、私達の声に賛同してくれる様になって行き、その頃には11家族に増えていた。
時の法務大臣でした稲葉さんに会えた。嘆願書を持って都庁前まで出向きました。
それから日弁連などからどうして必要なのか、そこまで厳しくする必要が有るのかとかなりのブーイングが有りましたが、数年前に改正されました。私達遺族はなっとく出来ないがひとつの区切りにしました。
その後私は自助グループを各地に作れたらと行動に出ました。あまり家の外には出たがらない家内を連れ近畿地方はほとんど行きました。まさか沖縄、石垣まで行くとは想像していなかった。現在私は全国犯罪被害者の会(あすの会)に所属しています。又私の地元岡山ではVSCOのみなさんの足手まといになりながら頑張っています。
10何年前に私の投げた小さな石が消える事のない波紋となり、その傍らのは小さかった木が今では大きな樹となり、色々な味のする実(色々なサポートの意味)をつけてくれているのが嬉しくも又悲しくも有ります。